綺麗な言葉には棘がある

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最近仕事上の会議の中で違和感がある言葉が交わされていたのである。

「あれ?何か聞きづらい。汚い!」と感じたのだ!

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耳障りな言葉

お客様向けへの提案資料(システム設計)のレビューでの会話である。

A氏「その問題が発生する確率は低く性能をアップするのは効率的ではない」

B氏「何かあったら影響が大きいのでリスク対策として準備をするべき」

A氏「C君の設計実績を信じるべきだろう」

B氏「根拠が薄くユーザは納得しないと思う」

A氏「C君はベテラン設計者だ、リスク対策は良いが無駄骨になることは避けるべき」

違和感がある言葉とは

実は良い言葉「無駄骨に終わる」

Aさんは思いっきり勘違いしているのでは?

無駄骨」に終わることは良いことなのである。

「無駄骨」って悪いイメージに取られがちですが、実は無駄骨に終わることは良いことだと私は思っている。

何かを実行するときは、いろいろな問題が発生するケースを考慮します。

それをリスクヘッジと言うのですが、リスクヘッジをせずに万が一問題が起これば、ものすごい影響がでてしまうのが一般的である。

少なくとも万が一の時は○○が必要だという考えや準備などのリスク対策は必要である。

そのリスク対策が発動せずに終わったのであれば、結果的に「考えすぎでしたね、無駄骨に終わってよかった、よかった」というのが正しい日本語ではないかと・・。

A氏の発言は、無駄骨になることが良くないという、価値観を持っているのである。

上記の例では、C君の設計で進めるとしても、無駄骨になっても良いから、再設計を行うことを考慮したリスケの準備や再設計を行うリソースの準備は必要なのである。

実は悪い言葉「信じる」

実はA氏はもう一点発言してはいけないことを言っているのである。

それは「信じるべき」と客観的な根拠もなく人を信じることである。LIAR GAMEというコミックで私も勉強させられたのだ。

一般的に「信じる」というのは、心地よい言葉で高尚なことであるが、通常の会話ではほとんどが高尚な意味では使用はしていない。

信じているのではなく、考えることを止めて知能を停止したときに出てくる言葉だ。そして知能を停止し考えることをやめてしまえば、やがて「無関心」になる。

そして無関心こそが人間の中では最大の悪と言われる。

逆に「疑う」という言葉は悪いイメージがあるが、疑う行為は相手を知ろうとする行為なのである。

相手を知るために疑問に思い考えるのだ。だから人間はもっと疑うべきなのである。

子供が意味もなく、いきなり「10万円貸して」と言ってきたら、「わかった」という親はいないだろう。

疑うという意味ではないが、何かのトラブルに巻き込まれたのかもという思いで「なぜ?何に使うの?」となるのだ。

他の例では、後輩がお客様向けの資料を見てほしいとなった場合、さらっと目を通して「良い」と終わらせるのではなく、たとえ良い出来であったとしても、コミュニケーションを取るべきである。

会議室に移動し「問題も無くよくできているが、お客様から○○と言ってきたら?」と言うように後輩が何を考えているのか確認したり、お客様との問答を想定したリハーサルをした方がはるかに良い結果になるのである。

私の場合は内容はもちろんですが、絵の構成や色などのビジュアル的な面も口を出してしまっている・・・。

本筋とは違うかもしれないが、見た目でも勝負しているのだ(だって見た目が綺麗で理解しやすいと、沢山説明しなくても済むんだもん)。

「信じている」は信じているのではなく、面倒なので考えることを止めてしまった。さらに悪く言えば「無関心」になっているのである。

表現こそ美しくないかもしれないが、人間は疑うからこそ相手を知ろうとしているのである。

「信じる」と「疑う」は表向きのイメージとは逆の真実が隠されているのである。

会議の話に戻して・・

会議室の会話ではAさんは悲しい人間ですね。

何か問題があれば間違いなく、C君の設計に問題があったと言うだろう。

真実はC君の設計が問題ではなく、C君の設計で良しと判断したのが問題なのである。

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